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工場長

時空を駆け巡るマシンはでてこない(。-`ω-)

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「射義」の解釈をしてみた

タイトルからして、お前は何様のつもりだなんて思われても仕方ない。

以前から気になっていたことで、弓道の教本を開くとまずこの射義と射法訓が書かれている。
特に射義は「礼記」からの出典であるため、これだけ見たって流れがわからなかった。
「礼記」の中でどういう関係の中でこの射義が書かれているのか気になったので、少々その文章を引用してみる。








(以下、弓道教本第一巻より) 
 礼記 射義

 射は進退週還必ず礼に中り、内志正しく、外体直くして、然る後に弓矢を持ること審固なり。
 弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中ると言うべし。これ以って徳行を観るべし。
 
 射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず。反ってこれを己に求むるのみ。







というもの。では、現代語ではどうなっているのだろうか。








(以下、現代語訳。出典:中国古典文学大系3より抜粋)
射義 第四十六

○ 射る人は、まずその足の運び、身のこなしが、きちんと作法に会い、内心が邪ならず、姿勢が正しくなければならず、それでこそ弓矢の持ち方が確かで、またそれでこそ矢の中る中らぬを論ずることができる。すなわち弓射にもその人の徳が現れるのである。
 
 ○ 射は仁の道にあうものである。射は、正しく射るべきことをその人に求める。おのが身を正しくして、そこで矢を発する。発して中らなければ、反省して己の誤りを求めるのみであり、勝った相手を恨むことはない。












というもの。

教本はそこから弓道の理念を掘り下げて解説している部分があり、今回拝借した本はもっぱら古典の現代語訳といった感じ。(当然といえば当然)
比べてどうなるのよって思うだろうけど、古典文学大系の方を読んでいくと、実は教本の射義は『本来のテクスト(射義という章段)の冒頭と末尾をくっつけたものなのである!( ゚Д゚)



具体的には、冒頭部分の「射は進退~」の前にはもう一つ段落が存在していて 「昔諸侯が弓射を試みるときは、必ずその前に燕礼(宴)をやったものであり、卿、大夫、士の弓射にしても、やはりその前に酒の例を催したのである」という旨の文章がある。




あれ、宴会……?





 ここでいう宴は君主と臣下の義を明らかにするものの一つとされており、酒席ではあるが身分に応じた振舞いが事細かく決められていた。



 
これだけ読むと、弓射は余興なのかってガックシきてしまうのだが、この後の段落でフォローが入る。

  「弓射は男子の必修であり、人の性格や徳観を見るのにふさわしいものとされたため、天子はそれを熱心に行っていた」ということを、孔子のエピソードも挿入して書かれている。


何が言いたいのかっていうと、射は単なる武技ではなく、善射の人はまた德行に秀でたものでなくてはならないことを強調するものと考えられる。
 
最後にダメ出しとして「射は仁の道なり~」と続く。


 
そうすると、射義全体としては男子の教養の一つとして弓が数えられており、エリートたちと交流するツールの一つだと言っている。
さらに、礼記全体として見た時に射義は「郷飲酒義」と「燕義」という、いずれも古代の酒席での振る舞い方について書かれた章段の間におかれている。


こう、なんだろうね……弓を引くのはエリートのたしなみだけれど、宴会の余興じみた感じが拭い去れないのは、私だけなんだろうか(´・ω・`)

まあ、礼記は古代の官僚たちがどう振る舞うべきかを書いたマニュアルで、「礼は例」、つまり慣例を遵守しなさいよっていうスタンスの本だから、弓道に限って書かれたものではないし……。




それに教本は教本で、独自の見解を見出しているのだけれども、善射の人が徳行を見出すのかっていうと、徳行を見出そうとする人が弓を引いて、結果善射となるように見える。
ただ弓を引けばいいってもんじゃなくて、ちゃんと目標を立てて「自分の射」を実現できるように日々修練に取り組みなさいってことなんじゃないかな。


古典の「みとこはんなか」で意外な解釈がされて、価値観の教育に使われるっていうのは昔からあることなんだなあって思った。



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